Products for Feelin' Good by Yataro Matsuura
パリの至宝、 アレックス・サンジェに乗る 松浦弥太郎

一見すると、クラシックな佇まいの一台の自転車。細身のクロモリフレームに泥除けや前後のラック、ライトを備え、華美な装飾はない。しかし細部に目を凝らせば、手仕事による金属パーツやフレームに残るデカール、使い込まれた塗装など、80年近い時間が刻まれていることに気づく。フランス・パリの名門自転車工房、アレックス・サンジェが1947年頃に製作したランドナーという1台。松浦弥太郎が所有するこのランドナーの製造番号は450番という、極めて初期のものである。
アレックス・サンジェは1938年創業の、パリに残る手作りの自転車工房である。現在も1台ずつ人の手で組み上げられ、注文してから完成までは約2年。松浦がこの工房を訪れたのは今年4月のこと。松浦もオーダーを考えたものの、心のどこかに別の思いがあったという。「もちろん今のパーツは性能も高いし、それを人の手で組んでもらうのもいい。でも僕は、自転車文化が一番豊かだった1950年代頃のものが欲しかったんですよね」。そんな折、自転車好きの高齢のコレクターと知り合った。その方は年齢を重ね、自転車に乗ることが難しくなり、大切にしてきた1台を引き継いでくれる人を探していたという。そこで松浦のもとへやってきたのが、このランドナーだった。速さを競うロードレーサーとは異なり、荷物を積み、長い距離を走るために生まれた“旅するための自転車”だ。この1台には、コレクターの手に渡る以前のかつての持ち主の痕跡が残されている。ハンドルのステムに刻まれているのは、最初に注文した人物の名前と住所。そこには「Madame Jacob」とある。アレックス・サンジェでは、乗る人の体型に合わせてフレームから製作し、色や仕様まで1台ずつビスポークしていることからステムに所有者の情報が刻まれる。松浦が住所を調べてみると、パリ東部に暮らしていた女性だったという。「当時、こういう注文自転車は高級品ですから、おそらく裕福な人だったんでしょうね。マダム・ジャコブという人のために作られた自転車が、巡り巡って僕のところに来た。それが面白いですよね」。そして驚くべきは、タイヤとチューブを除き、ほとんどすべてのパーツが当時のまま残っていること。自転車は消耗部品が多く、ブレーキや変速機は性能の向上とともに交換されていくのが普通だ。この1台には、当時のディレーラーやカンチブレーキ、マイナスネジ、さらにオリジナルの塗装とデカールまでが残されている。松浦は譲り受けたあと、自らできる範囲で分解し、オーバーホールした。希少なものだからと飾っておくのではなく、きちんと整備して乗る。そこに松浦とこの自転車との付き合い方がある。「自転車って、昔も今も基本構造はほとんど変わらないんですよね。しかも全部分解できて、メンテナンスすることを前提に作られている。構造がすごくシンプルなんです」。実際に走らせてみると、80年近く前の自転車とは思えないという。まっすぐ走るときの安定感があり、ブレーキの効き方やギアチェンジも滑らか。現代の自転車のようにスピードを求めるのではなく、自分のペースで景色を眺めながら、長い時間を走るための乗り物なのだ。「長時間乗っていても全然疲れないんです。ポジションが絶妙で。たまたまマダム・ジャコブと僕の体格が近かったのか、このフレームがぴったりなんですよね。曲がりたいように曲がるし、止まりたいように止まる。自転車と一体になる感じがあるんです」。週末には友人と多摩川沿いを走ったり、ひとりで都内をゆっくり走ったりする。休日には磨き、整備し、また走る。かつてクラシックカーを愛してきた松浦にとって、その楽しみが今、自転車へと移ってきた。歴史的な価値を考えれば、保存して眺めるだけでも十分な1台なのかもしれない。しかし松浦が惹かれるのは、そこではない。古いものをアンティークとして閉じ込めるのではなく、日常の道具として使いながら次の時代へ継承していくこと。80年近く前、パリに暮らすひとりの女性のために作られた“旅する自転車”が、海を越えて、今も東京の街を走っているのだ。



松浦弥太郎
1965年、東京都生まれ。エッセイスト、クリエイティブディレクター。2006年から2015年まで「暮しの手帖」編集長を務める。現在は多くの企業のアドバイザーも行う。
| Photo Kengo Shimizu | Interview & Text Takayasu Yamada |












