Style File 01 Director Tetsu Nishiyama
西山徹と探る 自身のスタイルの理由
その時代ごとに応じた
普通の概念を作り出す
この日、ジャケットにデニムというカジュアルなスタイルで現れた西山徹。定番アイテムで構築されたコーディネートではあるが、その佇まいには西山らしい洗練された空気感が漂っていた。まさに普遍的でカッコいい、自身が手掛けるDESCENDANTのコンセプトに通じるスタイルだと感じられた。最近の西山はジャケットを愛用しているイメージがあるが、今のファッション的ムードはどういうものなのだろうか。「たしかにブレザーは最近よく着ているアイテムですね。最近はスタイルを探そうと思えばSNSなどですぐに見つけることができるじゃないですか。そんな時代の中で、自分の属性はどこにあるんだろうって考えたんです。そこで、今の時代、トラッドな服を好んで着ている人はいないんじゃないかと。さすがに普段からセットアップでスーツを着ることはないですけど、ジャケットは日頃から羽織るし、そのうえでボトムスでスタイルを出していくっていうのは、どの属性にも分類できない自分らしいスタイルなんだなと思って。そういうことが今の自分の仕事に繋がるのかなと。ハズしを意図的に効かせるという意味ではなく、基本的にトラッドなものがずっと好きなんですよ。スタンダードなものが好きで、その取扱方法は自分で考えますっていう。そういうのが好きなんだと思いますね」。スタンダードな定番アイテムを時代や社会の状況に合わせてアップデートさせていく。そのようにして自分だけのスタイルを作りながら、モノづくりに活かし続けていく。西山のスタイルというのは、自らの中にある“普通”という概念を時代感を踏まえながら自分流儀のやり方で更新させ続けていくということになるだろう。そして、そのスタイルの根底には、東京ストリートカルチャー黎明期の90年代に出会ってきた仲間や、自身が体験してきた出来事がある。その媒介として、渋谷という街とスケートカルチャーが重要な役割を担っている。
自分らしさを
表現していたコミュニティ
取材場所は西山が新たに構えたアトリエだ。ここにあるものを追究していくと、どのようにして西山のスタイルが構築されていったのかを知ることができるので、西山のスタイルの確信に迫る前にどのような場所なのかについて概要を説明しておきたい。広々とした真っ白い空間を上下で分けるように仕切られた空間は、下はガレージ然としたウェアハウスに。階段を上がったロフト中央にはデスクとPCが置かれ、シンプルで静けさのあるスペースになっていた。このアトリエを設けたことにより、これまで長年コレクションされてきたモノがようやくここに集約されたのだと言う。見れば、収納エリアには膨大な数のアイテムが敷き詰められている。あらゆるカモ柄をしたミリタリーウエア、大量のVANSのスニーカー。山積みになったスケートデッキ群から年代モノに違いないスタジアムジャケット。額装された映画のポスターや、『スター・ウォーズ』などのキャラクターグッズから、自らが手掛けてきたプロダクトのサンプルなど…とにかくすさまじい物量だ。
振り返れば、FORTY PERCENT AGAINST RIGHTSがスタートしてから約30年が経つが、その間、西山が通過してきたカルチャーを体現するものが置かれているように感じた。ここにあるものこそ、まさしく西山を形作ってきたものであり、現在のスタイルに繋がるルーツだ。このアーカイブの中から、自身のスタイル構築に繋がる重要な要素を人・モノ・コトから5つピックアップしてもらった。そのフィフス・エレメントを巡っていこう。1つ目は、生まれ育ってきた場所でもある街、渋谷だ。「10代だった頃、スケートボードで出かけるとなれば246のダウンヒルからスタートし街をクルーズしながらスポットを回っていくというのが当時の在り方でした。まだ営業中の洋服屋やレコード屋にも入ったりして。自分にとって渋谷というのはスケートスポットであり、暮らしている場所でもあった、とにかく長くいた場所です。自分の場合はどこの街よりも、ホームタウンは渋谷なんです」。『E.T.』の影響からBMXをはじめ、雑誌からその存在を知り中学生の頃に周囲の友人と共に始めたスケートボード。最初に手にしたのはPOWELLのデッキだったそうだ。パークなどはまだない時代、街に点在する高架下はスケーターによってスクワッティングされ、どこからともなく持ち込まれたバンクやクォーターパイプで滑っていた。2つ目のエレメントはスケートボード。「スケートボードは子供の頃、大人たちから距離を置くためのものでしたね。大人には見えていないスポットにはどこからともなく子供たちが集まっては不法に占拠した場所でめちゃくちゃなことをやって、そこで起きたことを子供同士で解決し、大人には知る由もないない場所であり、そんな時代だったんです。スケートボードは、子供たち個々が自分らしさを表現していたコミュニティだったんだと思います。そこで学んだことが今に繋がっていると思うんです」。アトリエのロフトに置かれていたショーケースには無数のスケートカンパニーのステッカーがディスプレイされており、その上にはTHRASHER MAGAZINEが2冊飾られていた。こうしたところ今もスケートカルチャーを深くリスペクトしていることが伝わってくる。「今でも紙媒体でスケートボードの本質を発信し続けている唯一のメディアだと思うので、サポートとしての意味合いで買っているというのは今もあります。あれ(THRASHER MAGAZINE)を前にするときは平伏しなくてはいけないような気持ちになるというか。それくらいパワーやエネルギーがある守り神みたいなものなんですよ」。
自分なりのスタンダード
現在の服作りにも通ずる
スクリーンの向こうに見たアメカジ
アトリエに数多く置かれていた80年代の映画に登場するアメリカのキャラクターグッズ群。3つ目のエレメント、映画。これは渋谷ともリンクする。80年代、渋谷には映画館が数多くあり、ムービー・コンベンションが開催されて、海外から監督が来日したり、作品にまつわるトークショーが行われていたりと映画産業が盛んだった時期だった。その当時、西山は憧れていたアメリカンカルチャーを知りたくて映画を好んで観ていた「。時代的にも海外の情報が手に入らない状況だったので、映画を観ることで、得ることは多かったんですよ。『E.T.』もそうですし『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『グーニーズ』などの映画を通してアメリカの同年代の人たちが、どんなファッションで何の音楽を聴いて、どういう生活をしているのかっていうのを映画を通して観ていたんです。フーディ、ラグランシャツ、カーゴパンツやMA-1だとか、払い下げのサープラスのものを子供たちが着ていたりして、スクリーンを通して見ていたそれらのアイテムはのちに自分が何かを始めるときのキーアイテムになっていきます。WTAPS®をスタートしたとき、1番最初の品番はカーゴパンツでした」。WTAPS®がブランドスタート時からリリースし続けているジャングルシリーズなどのプロダクトを見ると、シックスポケットのカーゴパンツが重要なアイテムであるかが伝わる。西山にとって、当時の時代感を示すアイコニックなものがスクリーンの向こうに見たアメリカンカジュアルであり、カーゴパンツであり、今のスタイルを作った4つ目のエレメントなのだ。
東京ストリートを共に作った
先輩連中からの多大な影響
5つ目のエレメントは西山に影響を与えてきた先輩たち。今では一緒に撮影するのは珍しいことだそうだが、スケートシング、藤原ヒロシ、江川芳文と一緒に写った写真を見せてくれた。まさしく、東京ストリートカルチャーを作り上げてきた4人との出会いは西山が中学生の頃だった。「90年代初頭、毎晩のようにヒロシくんとシンちゃん(スケートシング)がやっていたGOODENOUGHのオフィスに入り浸っていました。シンちゃんがグラフィックを作っていたり、ヒロシくんが連載ページの校正をしているのを傍らで見たりしていたことは強い刺激となって、自分もそういうことをしてみたいと考えるようになったんです。そう思いながら、いつの間にかシンちゃんがきっかけとなって始めていたのがFORTY PERCENT AGAINSTRIGHTSでした。 GOOD ENOUGHのオフィスでシンちゃんと僕の友達たちとでコラージュを作って、Tシャツを刷って自分たちで着て。そういうクリエイティブな環境でモチベーションをもらって、いつの間にか始まっていたんですよ。学校が終わったら、すぐにスケートボードを持って彼らと一緒に出かけました。そこは常に吸収の場でしたね。新しい場所、初めて会う人。あの頃に感じていた高揚感は二度と感じることはないと思います。それほど刺激の強い環境でした。そう考えると彼らなくして今は語れない。恵まれた環境の中にいました」。カルチャー面において強くインスパイアされた先輩が彼らであり、それ以外にもNIGO®や滝沢伸介からも多大な影響を与えられたそうだ。西山のスタイルとして欠かせないスタイルとしてモーターサイクルカルチャーがあるが、愛車は滝沢から譲り受けたハーレーダビッドソンであることは有名な話。バイクを通して体得したのは、DIYという手法を用いて自分だけのものにしていく感覚だと言う。「元の形に手を加えて、自分で工夫しながら違う形のものにしていくという在り方は、今の仕事にも通じる部分があると思いますね。そういう意味でバイクを触るというプロセスが自分にとって大事だったんだと、今になって思うんです。自分がモノ作りを続けているルーツがここにあるんじゃないかと思います」。名前が挙がった先輩たちは東京ストリートを作り上げた人物であり、全員が今も最前線で活躍を続けている。彼らのスタンスや活動から得たものは西山自身を形成するにあたって絶大な影響力があったに違いない。90年代と現在で、西山が興味を惹かれたり好きになるものに違いはあるのだろうか。「昔も今も、自分で発見していくことの方が好きになるものが多いと思います。当時から押し付けられるのは好きじゃなかったし、自分というフィルタを通っていったものでなければなりません。スケートボードというカルチャーはアメリカのカルチャーを知るにあたって不可欠だったから必然的に学ぼうとしていたんだと思いますし。バイクも同じじゃないですかね。誰から押し付けられることなく、自分で見つけていくのが好きなんだと思います。自分に大きな影響を与えるきっかけになる人たちが背中を押してくれたんじゃないかなと思います」。自分にとって当たり前となった“普通”を時代ごとにアレンジしながら提案していく。そんなスタイルに至ったのは、西山が好きになるものを見つけに向かってきたからだ。スタイルというのは1度完成したら根底が大きく変わることはない。ここで紹介した西山のフィフス・エレメントは、今後のクリエイションにおいて形を変えながら時代にマッチした内容で姿を見せていくのだろう。
FORTY PERCENT AGAINST RIGHTS®
https://www.fparmg.com/
WTAPS®
https://www.wtaps.com/
DESCENDANT®
https://www.descendant.jp/
Photo Yusuke Yamatani | Interview & Text Ryo Tajima | Edit Shohei Kawamura |